ふと虚しさに駆られることがあるなら、試しに目を通していただければと思う。
欺瞞極まって虚に陰転する
虚しくなるのは、あなたの理想と、現実(正確には共同幻想といって、みんなが現実だと信じているもの)が平行線のまま、ギャップが埋まっていかないことに関して、それでいいのだと思いきれていないからである。
端的に言えば、自身の存在を賭けて、理想を体現しようとすることを「諦めきれていない」からである。
本当に諦めていたら、虚しくはならないのである。犬や猫が虚しさを(おそらく)覚えないのは、目の前の現実に完全に適応しようとするからである。
犬小屋に繋がれた犬が発狂しないのはなぜか。その環境に適応しようとするからである。こうなると、諦めるという概念ではなく、そういうものだと信じているから、違和感などそもそもないのである。
きれいな現実と地味な生活
我々人間には目の前にある現実を、そういうものだとは明らかにしていくことは難しい。全世界の人間と繋がれる現代において、自分の生き方が全てでないことを知ってしまったのだ。SNSから流れてくる情報は、加工されたきれいな現実である。
自分よりも若い人間が、自分より稼いでいて、自由で、すべてを手に入れている(ように見えている)。自分がうっすら描いていた理想を、叶えている者の存在を知ってしまったのだ。(実際、派手そうに生きている人間の生活も地味である。所詮同じ人間である。基本動作はあなたと変わらない)
それなのに、私の眼前にある現実課題は、地味である。だから退屈なことが、本音を我慢している自分が、許せなくなってしまった。心の底ではそう思っているのに、「でも私は幸せだし、この生き方しかなかったのだ」と気づかないふりをしたとき、感情が抑圧される。
今の時代に、固定化された生き方などない。その事実を見て見ぬ振りして、これしかなかったと思いたい。
この抑圧された感情が、虚無感として現れる。
負けないように、自分のできる最大限の見栄を貼る。例えば、SNS上で挙式の写真を貼り付けたり、ときどき高価な所有物を載せたり、風変わりなメニューを撮ってアップロードする。
クライマックスの瞬間は、魅せるための素材となる。見栄を張り続ければ、あなたのことを、理想を体現した者であるという認識を他者は持ってくれるだろう。だが、そんなことをしていても無駄である。
自己欺瞞が飽和すると、見栄は虚無感にひっくり返る。幸せだと思いたかった人間ほど、虚無感は積もっていく。
「私は幸せを分け与えようとしたのではない、自分が幸せな人間だと証明したかったのだ。価値のある人間だと認めてほしかったのだ。」
生きていく上で幸せである必要はないのだが。人というのは、幸せではないと気がすまないらしい。
余談だが、見栄の張り合いによって、退屈なことができなくなり、人生にエンターテイメントの要素がなければと思うようになる。これを受けて企業は、面白く働ける環境や、周りに誇れる制度を作るようになる。募集しても人が集まらなくなるからだ。これは時代の流れとしては歓迎すべき事象かもしれない。
自身の存在を賭けて生きよ
さて、ここからが本題。この虚しさを打破するには、どうすればよいかということだ。
一つは、完全に諦めること。明らかにして、諦めること。これでいいと納得することである。だが多くの場合は欺瞞に収束して、その境地に辿りつくのは難しい。卑屈になる人は、諦めを選んでいるのに、結局諦められていないのだ。すると、虚しくなる。諦められていないのに、諦めたことにしているのだ。だから必然的に次の方法を取るしかない。
諦めないことを自覚することである。それがもう一つ、自分自身の存在を思い切り世界にぶつけることである。理想の体現とは、存在を貫いた結果論である。すべては自分に相応しい程度に収まってくる。それで構わないと腹を括って自分の運命にぶつかっていくことだ。諦め(明らめ)の境地は、この段階を踏まえなければ達成できない。
自身の存在を賭けて生きることなしに、あきらめることなんてできないのだ。
本音で生きた結果、村八分になろうが、否定されようが、構わん。成功して結構、失敗して大いに結構!
「私はこう思ってやっていて、その結果がどうであれ受け止めるつもりだ」で、いいのではないだろうか。