幸福という言葉が好きじゃない。少々工面しなければならない状況にいる友人、もっと広げて災害や紛争で悩んでいたり苦しんでいる人たちがいる、そういうことを知ってしまえば自分事ではなくても誰でも心が多少痛くはなる。その時点でもう、既に幸せではないし、それでもなお幸せというのであれば、そういった事実を放り投げて、小さな枠組みの中で安心しきっている。
偽善者になれと言っているのではない。幸福だという人は少なからず自己欺瞞的であると言っているだけである。なにか嘘くさい雰囲気を持っている。
少しの想像力があれば、幸せではいられない。幸せであろうとした瞬間に、外界と自分の部屋の境界線が濃くなった感覚を持つだろう。幸せとはいつも窮屈で退屈なもので、自由とは真逆なものではないだろうか。幸せを求めた瞬間、視野が狭くなって息苦しくなる。だからそんなもの、追い求めないほうが自由である。私は幸福よりも自由自在でいたい。
違和感のない場所なんて存在しない。自分の抱く理想と現実が完全に一致することはない。私は幸せですと高らかに言ってしまう人だって、必ず何か都合の悪いことに対して目を瞑って、たまにその目を開けば自己嫌悪してる。そんなものだ。
あらゆる人間が、幸福教に入信しているかのように感じる。
かつては私も、幸せというものに向き合って、幸せになってやろうと思った。すると思考がどんどん自己完結してくる。本当の自己完結というよりも、どこか卑しくて、屈曲していて、抑圧を秘めていることに気づいた。これはダサいなと思ったわけである。
第一、なぜ幸せでなければならない。そんなことにこだわっているから不幸なのだ。むしろマイナスを背負えば背負うほど、生が燃えてくるだろう。マイナスの重圧に押し潰されないようにするには、自身(の考え方、価値観、存在)を尖らせて貫くしかない。周りに合わせれば合わせるほど、自身の存在が丸くなってしまって、自分の持っている不利な部分に覆われ袋小路になってしまう。
いや、そもそもそれは周りに合わせているのではなく、自分と相手を騙しているだけである。存在を尖らせても、人と歩み寄ることはできる。生まれ持った条件や育ち、背負っているものも違うのに、他人と同じようにふるまうから、いろいろと支障が出てくる。
幸せなどどうでもいいと、内から溢れる思いを行動に乗せてみてはいかがだろうか。