嫌われるのが怖すぎて、断れない人がいる。
重度になると、本来大事にするべき人よりも、自身の、嫌われたくない気持ちが先行してしまい、結果周りに迷惑をかけてしまうタイプの人間がいる。
自信がなく、人間に媚びている印象を持つ。調子を合わせているだけで、目の前の人間に向き合っていないため、失礼になってしまう。
嫌われても構わないという気概を持つには、まず、「嫌われる=価値がない」という謎理論を壊すことだ。嫌われるとは、相手にとって受け入れられないほどの大きな価値がある証拠だ。人は、対象を理解できないとき、嫌いになることが多い。
もちろん、約束を破ったり、人を貶めたりしているのが原因で嫌われているなら、それは改めなくてはならないというか、嫌われるのは当たり前だ。低次元の領域を話しているのではない。ここで話しているのは、自分の価値観や世界観が人から受け入れられなかったとしても、それを悲しむことはないということである。
断れば嫌われる、居心地が悪くなるくらいの間柄なら、そんなものとっとと破綻すべきで、真の友人を探すべきである。どうか、時間を無駄にしてほしくない。
好かれたり嫌われたりすることをコントロールすることはある程度までできるかもしれないが、たかが知れている。どんな風に過ごしても、あなたのことを気に食わない人は出てくるし、あなたを応援する人も出てくるだろう。
嫌われないことを人生の目的にしないことだ。誰の人生か分からなくなってくるだろう。
嫌われることは、好かれる以上の、底知れない価値がある。
私が学生の頃から、「あいつは自己中だ。嫌な奴だ」と影でしばしば言われていたが、だからどうしたと毅然としていた。そういった存在が、自身をこの世界の主人公にしてくれる。陰口をするような人格を持つ人間たちに自分の考えを理解されるほうが屈辱的である。誤解されたほうが良いと子供ながらに思ったものだ。
自分自身の世界を打ち出せば必ず否定されるが、それは存在が認められたということだ。
自分自身の世界を打ち出すということは、決まった型や古いやり方に対して、ノーを言い渡すことでもある。
違うと思うなら、それは違うと言うのである。