昨晩は間違えて徹夜をしてしまった。就寝は朝の十時。覚醒したときには、連絡や依頼がやや溜まっているはずである。これで忙しさの演出ができるわけだ。少し忙しない程度が、何をすべきか迷わずに済む。起きたのは十五時だった。この遅れを取り戻そう(むしろ先取りしたつもりなのだが)と机に向かう。メールチェック。新規の依頼は1件。昨日の依頼人からの返信が2件。
私の仕事の一つに人生相談がある。胡散臭いかもしれないが、それだけでも十分な生計を立てている。しかも家から出ないときたもんだ。客とは基本的に文章のやりとりのみである。人生相談が派生して余計に足を突っ込むこともある。こうなると出張である。遠方ならば旅がてら仕事、ということになる。さて、本日の依頼人の相談内容を見てみよう。もちろん本来相談には守秘義務というものがあって外部に漏らすことはできない。だから、読者の君だけにこっそり教えてあげよう。なあに大丈夫大丈夫。なんていったってフィクションなんだから。
《好きな事だけで生きていくって》
はじめまして。佐伯亜里沙(仮名)といいます。社会人三年目となります。仕事も慣れてきたところなのですが、この延長で生きていくことに違和感がありまして……だからといって、私の周りには私と同じように企業に雇われている方だけです。休日が楽しみな人生って、人生の大半を損している気がしているのですが。この考え方っておかしいですかね。よく同僚と愚痴をこぼし合ってしまいます。
ちなみに本物の依頼はもっと長かったのだが、こちらで要約した。どうせフィクションだしな。しかしこういった類の相談は多い。ふうむ。さて、どうしたものか。
休日や祝日が待ち遠しいと思えるのは、それは日頃から精いっぱい生きているからか、やりたくないことをしているのからかもしれない。仮に毎日が夏休みになれば、そういった有難さはなくなる。人生で僅かな回数、沖縄に行くからこそ、せっかくだから海で泳ごうとするわけだし、京都を訪れたらできるだけたくさんの寺社を辿ろうとするだろう。私は以前京都に住んでいたのだが、いつでも行けると思うと、神社は好きだったにもかかわらず腰が重くなるものだ。どうやら当たり前にあるものを好きで居続けるのは大変難しいらしい。
「好き」を成立させるのは、「好きではないもの」の存在である。この世界を好きな赤で塗りたくって、デフォルトレッドの世界を作ったとしたら、きっと赤が好きな事を忘れてしまうだろう。したがって、好きな色は差し色程度がいい。アクセントにするから、好きなことを忘れない。
この方だけでなく、「好きなことだけで生きていく」という潜在思念が日本中で渦巻いているように感じる。だが、それはデフォルトレッド(言いたいだけ)の世界である。恋人に対する恋心を失った経験があるなら、好きな事だけ生きていくのは、なおさらその願いには無理がある。その移り変わりを安っぽいと私は感じてしまうのだがね。好きを貫くには少々の工夫がいるということだ。その工夫の努力を忘れずにいてほしい。あれ何の話だっけ。
好きな人の中にも、好きじゃない部分があるのと同じで、好きなことの中にも好きではないことが含まれている。私は歌うのが好きだが、外に行くのは好きではないから、カラオケにしにいくのは億劫になる。その億劫さに目を瞑ってでもカラオケ店に行こうとするから、歌うことが好きな事が分かる。(余談だが、外に出なくても良いように、家で機材を準備してカラオケできるようにしている。)
好きな事だけで生きていくというキャッチは、人々を煽る詭弁に過ぎない。好きな事で埋め尽くされた世界で待っているのは、絶望的な退屈である。好きがインフレし、もっと面白いことを考えなくてはならなくなる。だが、これは悪いことではない。より楽しむ努力をすることになるので、自分自身を楽しませるエンターテイナーになる。この視点で仕事をすれば、人が考え付かない面白い企画を考えることに繋がる。今回伝えたいことは「好きな事だけで人生を埋め尽くしていっても、それは幸せとはまた違うなにかだよ」ということである。
好きな物事・行為は日々の生活の中でアクセントとして用いるのが良い。日常のアクセントといえば、「祭り」が挙げられる。祭りも年に数回程度だから良い。毎日太鼓が響けば騒音である。それはそれで良いかもしれないと思っても、参加者も必ず飽きる。飽きると続かない。続かないと文化として衰退する。好きな事だけしていも、飽きて続かなくなる。
食事がおいしいのは、お腹を空かせたからだ。いくら好きだからとはいえ、毎日同じメニューは飽きてしまうし、満腹であっても食べたいと思わない。やりたいことができて嬉しいのは、やりたいことをある程度我慢していたからだ。食べることが必ずできるという社会で、お腹が減ることは不幸なのかどうか。(ということで、やりたいことが全くできていない生き方をしているならば、それはやったほうがいい。精神衛生上。)
好きな事を好きでいるためにも、好きな事だけをやるのではなく、やりたくないこともやる。嫌いなこともやる。よくわからないこともやる。好きなものが多ければ良いと思っているなら、必ずしもそうではないと主張しよう。好きだからこそ、少量で。こういった思想で生きることができれば、ダイエットもできるかもしれない。友人や知り合いが社会人になって軒並み太っている中、私の体重は中学三年から変わらないのも、この考えから来ているのかもしれない。
そんなことを考えつつ、次のように回答した。
はじめまして。この度はご依頼いただき、ありがとうございます。さっそく回答に移りますが、あなたの考え方に間違いはありません。人は誰でも現状より良いものを、自由を、幸せを求めるものです。ですが、自由だから幸せ、というのも限らないのです。人生のあらゆることを自分で決めながら生きていくのは、想像以上に疲れるものです。待ち遠しさが月に四回もあるというのは、実は幸せなことかもしれません。
仕事の本質というのは、人の役に立つことですから、それが達成できる《好きなこと》であれば良いでしょう。ですが、好きなことも毎日やっていればその感情にも飽きてしまいます。すると何が残るかというと、それが得意かどうかです。仮にそれが得意でなかったとしたら、好きがなくなったあとのその仕事は、苦痛です。今の仕事とそう変わりはしないでしょう。
「好き」は自分で作ることができます。ですから人生に余裕がほしいのであれば、好きかどうかは後回しにして、まずは得意なことを見つけましょう。得意なことであれば、普通の人よりも楽に成果を上げることができます。今の仕事に適性があるのであれば、どうすれば好きになるかを考えてみてください。作った余白で、やりたかったことをやってみてください。
休日が楽しみなのが正常です。もし独立を考えているのであれば、休日よりも仕事があるほうが幸せを感じるようになります。働かせてもらって、しかも陰で愚痴を同僚と自由に言い合えるのも、これはこれで幸せなのかもしれませんね。
さて、さきほど友人の話をしたが、友達の数も差し色程度、少ないほうがいい。そのほうが友達を大事にできるからだ。私は友達が少ないことが自慢で誇りでさえ思っているのはそういった理由である。友達は?と訊かれたら個人名を挙げていっても秒で終わる。さすがに差し色程度というのであれば、もう少しほしいかもしれない。これではアクセントというより染みである。